なぜ織田・豊臣は滅び、徳川は15代、260年続いたか?

こんにちは。司法書士の川嵜(かわさき)です。

あなたは、事業承継について、税理士や銀行、コンサルなどから
いろいろ言われていませんか?

法律的な注意点や税金については
税理士や銀行、他の専門家などからいろいろ資料をもらっていると思いますので、
ここでは別な切り口で情報を提供いたします。

今回は、戦国武将の事業承継(世継ぎ)について。



なぜ、多くの経営者は歴史を学んでいるのか?

会社の経営と、国の運営はよく重ね合わせて例えられます。

歴史は繰り返すと言いますが、歴史で繰り広げられた人間もようは、
現代でも同じように起きているのでしょう。

戦国武将も代替わり(世継ぎ)については多くのトップが悩み、
あるときは上手くいき、あるときは失敗しています。

戦国で主役を演じた3人の武将も失敗と成功が明確に分かれます。
なぜ、織田、豊臣は滅び、徳川は15代、260年続いたのでしょうか?
※ 以下、表示している年齢は満年齢です。



織田信長と嫡男信忠は早すぎる死

織田信長は、本能寺の変で死亡しましたが、
そのときは満48歳の誕生日目前でした。

本能寺の変では、家督をゆずった嫡男織田信忠も自害しています。
そのとき彼は26歳(信忠の出生年は諸説あるので年齢は2歳程度ずれることもあります)。

このように創業者も2代目もその死は早すぎました。

さすがに信長も、自分と信忠がこんなに早く亡くなるとは考えていなかったでしょう。
家臣の謀反によって、織田家は途絶えてしまいました。



豊臣家はお家騒動

豊臣秀吉は、1591年、54歳の時に後継候補者の鶴松を2歳で失うと、
翌年1592年に甥の秀次に家督と関白の座もゆずりました。

そのとき55歳です。おそらく、鶴松を失ったショックと、
自分の次の世代への世継ぎに焦りを感じていたのでしょう。

しかし関白をゆずった次の年(1593年)に淀君とのあいだに秀頼が生まれると、
秀頼を後継者にしたいと願い始めました。

結局、家督と関白をゆずったはずの秀次に謀反の疑いをかけ、
切腹させています。
1595年のことで、そのとき秀吉は58歳。

その3年後、秀吉は61歳で亡くなっています。

後継者の秀頼は秀吉が亡くなったときは5歳。

とても豊臣家のリーダーとなれる年齢ではありません。

秀吉は死の数日前、後継者の秀頼を心配し、
徳川家康や前田利家宛に遺言を書いています。

その内容はこのようなものでした。

八月五日 秀吉
いえやす (徳川家康)
ちくぜん (前田利家)
てるもと (毛利輝元)
かげかつ (上杉景勝)
秀いへ (宇喜多秀家)
参(まいる)
返々秀より(豊臣秀頼)事、たのみ申し候。五人のしゆ、たのみ申し候。たのみ申し候。
いさい五人の物に申しわたし候。なごりおしく候。

「重ね重ね秀頼のことを頼みます。
五大老の皆さん、お願いします。お願いします。
今後のことは五大老にお任せします。名残惜しいです。」

天下を統一した男の遺言としては、とても寂しい内容ではないでしょうか?

豊臣秀吉は、家督をゆずったあとに
甥の秀次を切腹に追い込む「お家騒動」を起こし、
結果として、豊臣家を存続させることができませんでした。

現代でも会社のお家騒動はときどき目にします。

お家騒動で会社が強くなることは、聞いたことがありません。

大塚家具や雪国まいたけは報道でも取り上げられていました。

経営者としては、後継者を育て、そして、世継ぎ(事業承継)の時は、
お家騒動は避けるよう、準備が必要だと思います。



徳川家康は家臣から意見を聞いた

徳川家康の世継ぎは非常に用意周到でした。

1600年に関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康(そのとき57歳)は、
重臣達に「跡継ぎの候補を考えよ」と命じました。

関ヶ原の合戦が終わったことにより、
時代の流れは、戦国時代から天下太平の時代へと
大転換を迎えようとしていました。

家康の命により多くの重臣達は、家康の次男 結城秀康の名をあげました。

結城秀康は武将としても一流、武勇も抜群で、体格も良かったといわれています。

一方で最終的に2代目将軍となった徳川秀忠の名をあげた重臣は一人だけでした。

秀忠は、家康の三男で、知略や武勇では結城秀康に及びません。

しかし温和な性格でした。
平和の時代への転換を見据え、
平和な国家運営にはやはり温和な性格の秀忠が良いということで、
家康は後継者に秀忠を選びました。

一説には、次男秀康と家康の不仲説もあります。

ちなみに、家康の長男 松平信康は20歳の時に、
家康自らの命により切腹しています。

その理由については諸説あり、はっきりしたことはわからないようです。

家康は自分ひとりの考えではなく、
家臣の意見を聞いて後継者を選んでいたのです。

しかも時代の変化を見越した人選でした。

ここが豊臣秀吉との違いかもしれません。



隠居後の家康は院政

1603年に徳川家康は征夷大将軍に任命されました。

武家のトップです。

しかし、わずか2年後に徳川家の後継者に秀忠を定め、
征夷大将軍の座も譲り、隠居しています。

そのとき家康は62歳。

潔さもさることながら、これは大阪城の豊臣家に、
「政権は豊臣家にゆずらない。今後は徳川家が政治を行う」
と宣言したようなものでした。

隠居したからと家康は趣味に没頭したのではありません。

江戸から離れた駿府城(静岡市)に、
各方面の賢者を集め徳川家と幕府を盤石にするための方策を検討しました。

家康も隠居するまでは、徳川家のいわゆる社長です。

徳川家や幕府の顔として、いろいろな雑務やつきあいも多く、
「株式会社徳川」の、
将来を見越した方針や戦略をじっくり考えられなかったのでしょう。

しかし、隠居し会長職に退いてからは、
株式会社徳川の方針や戦略に没頭できたのだと思います。

そして家康は

「今後、徳川幕府の政治を安泰ならしめるための諸方策を考え出す。
考えたことは全て江戸城の秀忠に実行させる」

と宣言しました。

つまり、家康は

「政策は静岡の会長室で検討する。
東京本社では検討した政策を実行させる」

という、いわゆる「院政」を行おうとしたのでしょう。

家康は隠居後も「実権」を持ち続けました。

そして、太平となった世に適応するための徳川幕府の基礎固めをしました。

これを現代の会社の代替わり(事業承継)の場面にそのまま置き換えてもいいかは、
その会社の状況によりますが、
徳川家康は会長職に退いた後も、会
社の基礎固めのために、実権を保ちつつ裏から操っていたと言えそうです。



2代目秀忠は、平凡なリーダーだった?

家康の偉大さに隠れて、影の薄い2代目秀忠ですが、
彼は平凡なリーダーだったのでしょうか?

いえ、彼は偉大な創業者の後を継ぎ、
大きなプレッシャーと戦いながら、家臣をとりまとめ、
様々な施策を行いました。

そして、徳川15代の基礎を家康と共に築いた人物です。

だからこそ家康も秀忠を、自分の後継者に選んだのでしょう。

秀忠は何をしたのか?

それは次の号でお話ししたいと思います。

サブコンテンツ

このページの先頭へ